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赤穂の昔話・第38話「尼子山落城」

 2022年10月29日 
 今から400年ほど前の戦国時代、尼子義久という武将が高野の尼子山で毛利元就の大軍と戦いました。

 尼子山は三方が険しく、東側に佐方からの尾根道がありましたが、幅が狭く、途中で何か所か途切れていました。頂上まで登るためには険しい坂道を登るしか方法はありませんでした。

 義久は頂上に城を築き、まわりには高い塀をめぐらせました。そして、塀の外に大きな石をたくさん積み重ねておき、頂上に通じる坂道には竹の皮を敷き詰めて、毛利の軍勢を待ち構えました。

 毛利勢は一気に尼子城を攻めましたが、竹の皮で足がすべって思うように山を登れず、そこに大きな石が落ちてきたものですから、散々な目にあって失敗しました。

 「何か良い計略はないものか」

 毛利軍が相談しているところへ一人の老婆がやってきました。この老婆は尼子山の近くに住んでいましたが、息子を尼子軍に殺され、義久をうらんでいました。

 「尾根づたいに城まで行ける道がありまっそ」

 「何を申すか。あの尾根道は狭い上に何か所も途切れておるではないか。嘘を申すとただではすまさんぞ」

 「うんにゃ。ワシしか知らん道がある。この道を教えなかったもんで、ワシの息子は尼子の兵に殺されたんじゃ」

 毛利の軍は老婆の案内で尾根道を調べました。すると、老婆の言ったとおり、城に通じる道がありました。しかも、尼子軍はこの道に気付いていません。

 毛利軍は夜襲を計画して、大軍を尾根道から登らせました。不意をつかれた尼子の軍もよく戦いましたが、全員討ち死にし、ついに尼子城は落ちました。そのとき、はねられた義久の首が浜市まで飛んでいったということです。浜市の首塚がそうだと伝えられています。(赤穂市教育委員会刊『赤穂の昔話』・「尼子山落城」より)

切り絵・村杉創夢


 * * *

 このコーナーは今回が最終回です。ご愛読ありがとうございました。10月30日に挿絵を担当した村杉創夢さんのインタビュー記事を掲載します。
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掲載紙面(PDF):
2022年10月29日号(2481号) 2面 (7,751,332byte)
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