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戦後七十年・語り継ぐ(6)〜長崎で九死に一生

 2015年08月08日 
戦後に坂元さんが乗務した樺太からの引揚船・新興丸=坂元さん提供
◆坂元茂昭さん(87)=加里屋
 官立大阪海員養成所の航海科を卒業して東亜海運に入社した私は18歳だった昭和20年6月、長崎の川南造船所(現三菱重工業)で建造中の錦江丸に艤装員として働いていました。ところが、完工間近の7月半ば、アメリカのグラマン艦載機の波状攻撃を受けて大破。多くの犠牲者が出ました。
 生き残った者たちは修理の間、県庁近くの旅館で待機することになり、私たちはすることもなく退屈な毎日を過ごしていました。
 暑い日が続いていた8月9日、私は昼食当番だったこともあり、外出せずに旅館の2階におりました。そのとき、強烈な紫色の光線が眼に飛び込んできました。その後、今度はものすごい爆風が吹き荒れ、辺りは真っ暗になりました。
 しばらくして、近くの小高い丘に登ると、見渡す限りの家屋が全壊し、至る所で火の手が上がっていました。長崎での滞在は不可能となり、会社から自宅待機の指示を受けた私は、汽車が出ると聞いた約8キロ北の道ノ尾駅へ歩きました。道にはたくさんの人が倒れていましたが、どうすることもできませんでした。自分が生き延びることで精一杯でした。
 駅に着くと、翌朝5時に鳥栖行の貨物列車が出ることがわかり、私は同僚と2人で野宿しました。途中で拾った大和煮の缶詰を食べ、毛布を掛けた薪の横でぐっすり眠りました。翌朝、大声で起こされ、「よくもこんな所で寝たものだ。毛布をはぐってみろ!」と言われました。私たちが「薪」と思っていたのは、実はすべて死体だったのです。
 終戦の翌年、私は旧樺太からの引き揚げ者を函館へ輸送する新興丸の乗組員となりました。甲板にむしろを敷き、みんなで「異国の丘」や「リンゴの唄」などを歌いました。引き揚げ者は感激のあまり泣いていました。
 今でも毎年8月になると、当時のことが昨日のように思い起こされます。私の青春は戦争の中で終わりました。日本の現在の平和と繁栄は先人たちの苦労と努力の賜物と感謝しておりますが、戦争で多くの人々が犠牲になったことを忘れてはならないと思います。
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掲載紙面(PDF):
2015年8月8日・第2部(2148号) 1面 (6,481,900byte)
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