2026年05月30日
ともに学び合える「インクルーシブ(すべての人を排除せずに受け入れ、ともに参加・共生できる)」な体育授業の実現には、捉え方やルールを少し変えたり工夫したりすることが必要だと考えています。
その修正や工夫は、教師が「障がいのある子どものために」と思って一方的に取り組むと、「あの子だけ、特別扱いしている」という空気感が子どもたちの中に広がってしまいます。すると、一緒に活動をしていても、子どもたちの中で、障がいのある子に対して他人事のようなぎこちない関わりが生まれます。
そのような状態は、形式としては一緒に学んでいるけれど、本当の意味でのインクルーシブな授業に至っていません。大切なことは、当たり前になっていることに違和感を持ち、その違和感を解決する授業を子どもとともに作り上げるということだと考えています。
ある日の体育の授業終わりに、1人の児童が顔を伏せて泣いていました。その子は、特別支援学級の児童と同じグループでボールゲームを学んでいました。私は、その子に「何に困っているの?」とたずねました。すると、その子は次のように答えました。
「自分とX(Xは特別支援学級の児童)。障がいのある人と体育をするのは……別に障がいはええんやけど、うまくいかんくて怒ってる自分に怒ってる。障がいがある人は、なりたくてなったわけじゃなくて。それを理由に、体育が一緒に絶対できないっていうわけじゃない」
この児童は、特別支援学級の児童のがんばりを認められず、受容しきれないことへの自責の念を抱いていました。同時に、「体育が一緒に絶対できないっていうわけじゃない」と、ともに学ぶことの可能性を感じていました。
私が、この子から学んだことは、「ともに学ぶことを阻むのは、障がいではない」ということです。ともに学ぶことを阻むのは、そもそも体育の授業で扱う運動やスポーツが、障がいのある人を想定して作られたものではないということ、また、「障がいがあるから、できなくても仕方がない」という偏見だと考えます。そして、これらに共通するのは、社会で多数を占める障がいのない人がルールや文化を作り、それが当たり前になっているということだと考えます。
当たり前になっていることで、その違和感やその当たり前に困り感を抱いている人の存在に気づきません。しかし、伏せて泣いていた子どもは、活動をともにすることで、違和感に気づいたのだと思います。
多様化が進む現代において、この違和感に気づける人でありたいと思うと同時に、教育に関わるものとして、この違和感に気づく人材を育てること――それが、教育者としての私の使命だと考えています。(教育学部保健教育学科講師・萩原大河)

[ かしこい子育て ]
掲載紙面(PDF):
2026年5月30日号(2645号)2面 (4,880,654byte)
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