2025年10月25日
近年、子どもたちの「体力の二極化」が問題として取り上げられることが多くなっています。ふだんからよく体を動かす子と、あまり動かさない子。その差が広がっています。
だからこそ、学校の体育の役割が、これまで以上に大きくなっていると感じています。けれども、体育という教科は「できる」「できない」がはっきりと見えてしまうため、苦手意識を抱いたまま成長し、「体育が嫌い」「運動が苦手」と感じてしまう人も少なくありません。
私は体育教師として働いていたころ、『体育科教育』(大修館書店)に掲載された音楽家ヒャダインさんの文章「体育が嫌い」を読み、強い衝撃を受けました。「僕は体育の授業が大嫌いです。体育の教師も大嫌いです」という一文から始まり、運動が苦手な子にとって体育は恥をかく場面が多く、励ましの言葉さえ“同情”に聞こえることがあると綴られていました。そして最後には、「できない人はそっとしてほしい」と締めくくられていたのです。この文章を読んで以来、私は自分の授業を振り返り、「体育嫌い」を生み出していなかっただろうかと自問するようになりました。
今は教員を育てる立場となり、「体育嫌い」を「体育好き」にできる先生を育てたいと考えています。これからの体育は、運動やスポーツが「できる/できない」だけでなく、どうすればみんなで「楽しめるか」「続けられるか」などを考える力を育む場であると考えています。
私が子どものころ、近所の子どもたちと年齢も体力、体格もバラバラで野球をしていました。ピッチャーからキャッチャーまでの投げる距離を変えたり、ルールを工夫したりして、みんなが楽しめるようにしていました。車が通れば自然と試合中断。そんな中にも、互いを思いやる知恵がありました。
人には体力も得意・不得意もさまざまな違いがあります。その違いを認め合い、誰もが運動やスポーツを楽しめるように工夫すること――。それこそが、これからの体育の授業において大切なことだと思います。(教育学部保健教育学科講師・大谷麻子)

[ かしこい子育て ]
掲載紙面(PDF):
2025年10月25日号(2618号)2面 (5,405,643byte)
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