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“日本オーケストラの父”近衛秀麿の直筆譜

2008年06月28日

  • 作曲者・近衛秀麿の直筆であることがわかった赤穂小校歌譜

    作曲者・近衛秀麿の直筆であることがわかった赤穂小校歌譜

  • 在りし日の近衛秀麿

    在りし日の近衛秀麿

 赤穂小学校の資料室に保管されている校歌の古い譜面が、53年前の校歌制定時に作曲者・近衛秀麿(明治31―昭和48)が直筆したものであることがわかった。存在が忘れられていた二部合唱のメロディーも記されており、木曽文人校長は「これからも大切に保管したい」と話している。
 楽譜が発見されたのは今から10年ほど前。音楽準備室の棚を整理していた安部智子教諭(現尾崎小)が古い賞状の間にはさまっていた封筒を見つけ、中からA4判2枚をセロハンテープでつないだ手書きの楽譜が出てきた。
 表紙に「昭和丗年十一月廿日 三木露風詩 赤穂小學校々歌 近衛秀麿曲」と黒インクのペンで書かれ、セロハンテープは赤茶色に変色。一見して最近のものではないことを感じさせたため、額に入れて保管することにしたという。
 今月6日、上郡町内であった演奏会に来演した秀麿の孫でチェロ奏者の水谷川優子氏に、本紙が主催者を通じて楽譜鑑定を依頼。優子氏の父で作曲家の忠俊氏(72)=秀麿の二男=が表紙の署名などから「この筆跡は間違いなく父が書いたもの」と断定した。
 もともと皇室内で雅楽を統括した近衛家は五摂家筆頭の家柄。父篤麿は貴族院議長、兄文麿は内閣総理大臣を務めた。
 二男に生まれた秀麿は25歳で渡欧し、東洋人で初めてベルリン・フィルを指揮。帰国して大正15年に新交響楽団(現NHK交響楽団)を設立し、“日本オーケストラのパイオニア”と称えられている。
 主に指揮者として活躍したが作曲家としても「ちんちん千鳥」など秀作を残した。立命館大、法政大、天理高の校歌も手がけている。
 昭和22年から36年まで赤穂小で音楽教諭だった木村倖三さん(78)=中浜町=によると、当時の小林定雄校長が帰省していた三木露風を龍野に訪ね、直談判して了解を取り付けたという。同校の100周年記念誌(昭和49年刊)には「育友会費20万3700円で校歌制定」との記載がある。
 露風と秀麿は過去にもともに唱歌を制作した実績があり、赤穂小の校歌も露風が秀麿に曲を依頼したものと思われる。本紙調べでは、東京都三鷹市立高山小学校の校歌も二人による制作。
 「小学校の校歌としてはかなり格調高い印象を受けた」と木村さん。完成前に届いた第1譜は、サビの部分が小学生には難しく、「もう少し平易な音階に」と頼んだエピソードも。それと同時に二部合唱できるように低音部の追加も依頼したといい、「小林校長が郵便で届いた楽譜を『学校の宝だ』と言ってとても喜んでおられた。もう残っていないだろうとあきらめていたがあってよかった」と当時を懐かしんだ。
 直筆譜には、木村さんが希望した低音パートの音符が赤字で加筆されている。題名の下に「元気に満ちた行進の速度」と注釈があり、伴奏譜は同校が現在使っているものよりもリズムを重視した旋律が刻まれている。
 木曽校長は校歌制定の翌年に入学した同校OB。「この楽譜を見ると、偉大な音楽家によって作られたことをあらためて実感できる」と見入った。忠俊氏は「半世紀たった今も歌い継がれていることを父も喜んでいるはず。機会があれば私も赤穂小のみなさんの歌を聴いてみたい」と話している。


文化・歴史 ]

掲載紙面(PDF):

2008年6月28日(1801号)1面 (9,348,325byte)


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コメント

1970年頃近衛氏にお目にかかったことがありますが、その際赤小校歌を作曲したことを、お話いただきました。
記事を読み、ふと思い出しました。

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投稿:三木伸一 2008年06月29日


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