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討ち入りで使用、間新六の槍

2011年12月13日

  • 赤穂義士の一人、間新六が討ち入りで使用したと伝えられる槍

    赤穂義士の一人、間新六が討ち入りで使用したと伝えられる槍

 四十七士の一人、間新六(はざま・しんろく、1680−1703)が吉良邸討ち入りの際に使用したと伝えられる素槍を特別拝観する機会が11日に東京都中央区の浄土真宗本願寺派、本願寺築地別院(築地本願寺)であった。「今日まで、刃を研ぐなどの手を加えたことはない」(同寺)といい、通常は非公開の品。300年を超える時を経て、義士の息吹がよみがえった。
 新六(新六郎との表記もあり)は父・喜兵衛、兄・重治郎(十次郎)の親子3人で討ち入りに参加。裏門隊の一員として戦い、武林唯七、前原伊助らとともに長府毛利家で切腹した。同家の記録「長府藩御預り義士一件」によると、新六は形式的な切腹を嫌ってか、三宝の小刀を手に取るやいなや腹部に突き立てて引き回したという。享年23歳。遺骸は姉婿の中堂又助(老中秋元但馬守喬朝の家臣)が引き取り、他の義士たちが眠る泉岳寺とは別に築地本願寺へ埋葬された。境内にある供養塔(都指定文化財)は天保5年(1834)に火災で焼失し、後裔が再建した。
 特別拝観は元ニューヨーク本願寺住職の中垣顕實氏と大学時代に同期だった室蘭市の会社員、近藤健さん(51)の仲介で実現した。堀部弥兵衛を介錯した米良市右衛門の直系子孫を大叔父に持つ近藤さんは、赤穂事件に関係した人物の子孫や忠臣蔵愛好者などで作る研究会に所属。近藤さん自身は遠方のため参加をあきらめたが、会のメンバー7人が貴重な遺品を目にすることができ、本紙も取材を許された。
 本堂(国登録有形文化財)の2階会議室で行われた特別拝観。普段は宝物庫で保管されている品を同院庶務部の大辻子順紀(おおずし・じゅんき)部長(43)が搬出した。同部長によると、槍について新聞取材に応じたのは「おそらく初めて」という。
 全長2メートル71センチ。柄の材質は樫とみられ、太刀受けと鞘は黒漆塗り。鞘を取ると、平三角形の穂(刃渡り40・5センチ)が現れた。槍の入室を起立して迎えた東京都豊島区の会社役員、池田元さん(48)=堀部安兵衛を介錯した荒川十太夫の子孫=は「おごそかな歴史の重みを感じる」と感想を語った。
 新六の槍については、「討ち入りから引き揚げる途中、自身の供養を願い、槍に書状と金子を結びつけて築地本願寺へ投げ入れた」との言い伝えがある。前出の毛利家記録によれば、同家側は切腹の翌日に遺骸を引き取りに来た又助の使者に遺骸だけでなく刀、槍、着込など遺品も引き渡した−とあり、赤穂事件研究家の佐藤誠氏(39)=東京都西多摩郡=は「遺骸を葬った際に槍も築地本願寺へ奉納されたのでは」と推定している。
 新六の遺品は少なく、他には討ち入り時に使った、たすき(大石神社蔵)があるぐらいという。槍は一人の義士の鼓動を感じさせ、再び眠りについた。


文化・歴史 ]

関連サイト:

■浄土真宗本願寺派本願寺築地別院(築地本願寺)

掲載紙面(PDF):

2011年12月17日(1971号)1面 (9,929,029byte)


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コメント

まさに九尺の槍ですねー
槍の実物をナマで見てみたい・・・

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投稿:忠臣蔵問屋わたや 2011年12月14日


討ち入り前日に、本懐を遂げた気分になりました。感謝!

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投稿:こんけん堂 2011年12月13日


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