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柴原家から大分の豪商へ 明治前期の書簡見つかる

2008年05月03日

  • 柴原甚三から菊池安之丞に送られた書簡

    柴原甚三から菊池安之丞に送られた書簡

 江戸から明治にかけて西浜塩田最大の塩業者として栄えた柴原家が九州の豪商に塩の購入を勧めた書簡がこのほど赤穂市内で見つかった。封筒に貼られた切手の発売年代から、明治12年以降に出されたものとみられる。1万点超の古文書群が市文化財に指定されている「柴原家文書」の中にも取引先とやり取りした書簡は珍しく、全国各地に及んだ赤穂塩の販路をうかがわせる史料といえる。
 書簡の封筒は縦約18センチ、横約5センチ。差出人は後に奥藤家などと共同で赤穂銀行を設立した「柴原甚三」で、封の部分には同家の屋号「濱野屋」の印。宛て先は「豊前国中津諸町」の「菊地安之丞」と書かれている。
 切手収集を趣味にしている尾崎の病院職員、和田豊さん(60)が2年ほど前に「赤穂」の消印が押されている書簡をインターネットオークションで落札。3月15日付本紙「赤穂の塩業展」の記事で柴原家が有名な塩田業者だったことを知り、本紙に連絡してくれた。
 書簡は縦約16センチ、横約67センチの和紙で、「郵便ヲ以啓上仕候」の書き出し。署名の上に「七月七日」の日付があるが年号は書かれていない。
 文面は「特別に吟味した古濱塩を当家の所有船・多力丸に積み、一昨日に出港しました。尊家様に1500俵をご用意しております。押し付けがましいですがお買上げのほどご依頼申しあげます」などが主な内容で、価格は「200俵につき16円70銭」としている。
 「中津の郷土史を語る会」の小野維平氏(71)によると、書簡の宛て先は享保元年(1716)創業のしょうゆ醸造元「室屋」の当主で正しくは「菊池安之丞」。書簡の「地」の字は「池」の書き間違いとみられる。
 当時、菊池家の当主は代々「安之丞」を襲名しており、今回見つかった書簡の受取人は5代武幸(1848―1918)と推定される。同家はしょうゆ、酒、油を扱う九州地方屈指の醸造業として栄え、大正期にはしょうゆだけで年間1500石を超える生産高を誇った。創業から290年以上経つ現在も「むろや醤油」の屋号で伝統の味を守っているという。
 両家間で実際に売買が行われたかどうかは不明だが、書簡を解読した「塩屋歴史文化研究会」の岡田順一会長(81)は「少々あつかましい文面とも感じられるが、逆に言えばそういう手紙を出しても許される間柄だったのでは」と推測。
 小野さんによると、「明治初期はまだ近くに塩田がなく、他の産地から塩を仕入れていたはず」という。武幸の曾孫で「むろや醤油」8代目当主の菊池和靖さん(65)も「古文書類はすべて市立図書館に寄贈しており正確なことはわからないが、品質のよい赤穂の塩を材料に使った可能性はある」と話す。
 「今でいうところの“営業用ダイレクトメール”では」と語るのは「赤穂市史」執筆者の一人で赤穂塩の歴史に詳しい高校教諭の西畑俊昭氏(59)。文中に書かれてある塩の価格が「通常のおよそ半値」であることから、「ちょうど『松方デフレ』と呼ばれる不景気に入った時期と重なり、価格を下げたのでは」と分析した。
 江戸、大坂を中心に全国各地に塩を流通した柴原家は一時期、日本国内にとどまらず、台湾や中国など海外にも販路を求めたとの記録があるが、明治39年に破産したこともあり、売買履歴を具体的に示す史料は乏しい。
 西畑氏は「書簡は幅広く販路を求めた同家の経済活動の一端を示している。もし、対応する仕入れ台帳が菊池家に残っていれば興味深い」と話している。


文化・歴史 ]

掲載紙面(PDF):

2008年5月3日(1794号)2面 (7,414,555byte)


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