赤穂民報

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山鹿素行のお話(8)赤穂での著作と教育(その一)

2019年09月21日

 寛文6年(1666年)10月、山鹿素行は『聖教要録』を刊行した罪で播州赤穂に再び来ることになりました。
 今回は罪人としてであり素行も肩身が狭かったことでしょうが、素行を自宅離れに招き入れた大石頼母助をはじめとする赤穂の藩士達は、素行を罪人扱いするようなことは全くなく、反対に客人として大事にもてなしていました。住まいを提供した頼母助などは、素行が赦免されるまでの約十年間一日も欠かさず朝夕の二度、魚菜類を送り届けました。
 理不尽な罰と思いながらも潔く罰を受け入れる素行は、最初の一年間は人を遠ざけ自重した生活ぶりでしたが、段々と幕府も素行の行動を緩和してくれ、それに伴って藩士や藩士の子供たちを教えるようになって行きました。その中に8歳の大石内蔵助がいたのです。内蔵助は、素行が許されて江戸に帰るまでの約9年間、他の子弟と共に素行の教えを対面で受けたのです。
 その教えの内容が『謫居童問』として残っていますが、子供相手の教育といえ結構難しいものでした。学問編と治平編の二部に分かれ、学問編だけでも188章もあります。「学問を習っても習うだけでは口や耳で言ったり聞いたりするだけの学で終わり、普段の生活の中で実践して初めて実の学となる」という非常に厳しい内容です。
 大人が読んでも難しいことを本当に当時の子供たちが理解できたのかと疑わしく思ってしまいますが、大石内蔵助のあの義挙が成功するまでの行動を思い起こすと、悔しいけれどそうかなと頭を下げるしかありません。
 ちなみにこの本のある章には「学をするにはより良き師を選ぶべき」とありますので、これから本格的に学問をしようと思われる人は、先ずより優れた先生を選ぶべきです。そうすればその達成度はよりレベルの高いものになる筈です。
 そして、寛文7年8月、歴史の歯車は元禄赤穂事件のもう一人の重要な登場人物を江戸に誕生させました。すなわち、刃傷事件を引き起こした浅野長矩こと、後の浅野内匠頭です。
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 9月22日(日)午後1時より、赤穂ロイヤルホテルで「令和日本の道しるべ」と題して現代に甦る山鹿素行の教えについて歴史研究家の多久善郎氏を熊本よりお招きして講演会を開催します。入場はどなたも無料ですので、どうぞご家族揃ってお気軽にお越しくださいませ。


文化・歴史 ]

掲載紙面(PDF):

2019年9月21日号(2340号)3面 (7,942,012byte)


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