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尾崎家と七族の塩田開拓物語

 2012年10月20日 
「日野七族」が上陸したと伝えられる相浦川河口部を案内する田渕信幸さん(右)と澤正明さん
 古くから国内屈指の塩産地として名高い赤穂。その製造技法は瀬戸内海沿岸をはじめ九州、東北にも伝播したことが各地の文献に記録されている。小豆島、坂出など赤穂から移住した人たちが塩田を開拓した事例も複数ある。その一つ、長崎県佐世保市の「日野塩田」跡を訪ねた。
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◆村を開いた「七族」
 JR最西端の佐世保駅から西へ約6キロの日野町。西海国立公園「九十九島」の島々が沖合に浮かぶ。その海沿いの町にかつてあった「日野塩田」。現在は民家や商店が建ち並ぶ住宅街となり当時の面影はないが、「前之浜」「釜屋敷」などといった地名にその名残をとどめる。今でも道路工事で地面を掘ると、塩水を煮詰めたときの灰が出ることがあるという。
 佐世保市郷土研究所発行の『郷土研究』によると、播州赤穂・尾崎村出身の田渕、遠藤、前川、山口、原、嘉月、杠(ゆずりは)の七族が4代藩主・松浦鎮信(まつら・しげのぶ、1622−1703)から土地と薪用地の島を拝領し、慶安3年(1650)に平戸から入植して日野村が生まれた。七族は相浦(あいのうら)川の河口部左岸に「中土樋(なかどい)」と呼ぶ堤防を築いて塩田を整備。18世紀初頭に水田に作り替えるまで塩の生産に励んだ。
 「地元では“日野七人衆”と呼ばれています」と話すのは田渕信幸さん(75)。同町内に20戸近くある田渕姓はほぼすべてが入植者の子孫で前川姓、遠藤姓もほとんどが末裔らしい。
 七族は平戸から船でやって来たと伝えられている。上陸地点との言い伝えがある相浦川河口の「水ノ田尾(みずのたお)」へ田渕さんと甥の郷土史家、澤正明さん(74)が案内してくれた。
 そこには高さ1メートルほどの石祠が1基建っている。明治31年まであった鎮守神社の跡なのだという。中土樋の東端へ移転した神社は「國津祖(くにつそ)神社」に改号されたが、地元の人たちは「みずのとさま」と昔からの呼称で崇敬し、毎年9月17日に例祭を行っている。
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◆尾崎家とのかかわり
 七族は日野へ入植するまで現在の平戸市田平町に住んでいた。当時の菩提寺である是心寺(ぜしんじ、臨済宗妙心寺派、辻良哲住職)の古文書によると、先に赤穂から平戸へ移住していた尾崎(おざき)家を頼って西下したという。
 尾崎家は播磨、美作、備前の守護大名、赤松氏の流れをくむ一族。同寺が保管する『尾崎氏大系図』によれば、赤松政則の嫡子、尾崎則近を元祖とする。慶長16年(1611)に則近から8代目の九郎左衛門が平戸へ移り住んだのを皮切りに、元和年間にかけて父の三太夫、子の九郎助らが順次続いた。
 ちなみに、九郎左衛門の兄、九郎兵衛は尾崎村から塩屋村へ居を移し、その4代後の甚兵衛昌長のときに藩主から「柴原」を名乗ることを許された。つまり、平戸・尾崎家は後に赤穂藩蔵元を務めた柴原家とルーツを同じくする。
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◆交易から開拓へ
 『尾崎氏大系図』に話を戻す。一族は平戸を拠点に海外貿易に従事。天竺、摩訶陀国(いずれもインド)のほか、タイ、カンボジアなどとの取引で豪商となる。九郎助は藩主の命を受け、私財を投じて是心寺の前身である是興寺(ぜこうじ)を再興。同寺には九郎助が中国・普陀山(ふださん)で請い得たとされる銅製の観世音尊像(高さ約10センチ)と最晩年のものとみられる肖像画が現存している。また、九郎助が外国から持ち帰って植樹したソテツは本堂の奥山で高さ10メートル近くに伸長し、長崎県の天然記念物指定を受けている。
 しかし、幕府の鎖国政策によって平戸の商館は寛永18年(1641)までに閉鎖。平戸藩内では17世紀後半に塩田や新田の開拓が盛んに行われており、交易に代わる新規事業を推し進めた藩の意向がうかがえる。
 「日野七族」が平戸から日野へ移ったのは、まさにその時期。前出の田渕さんの話では、尾崎家の分家に当たる船越家が塩田を統括していたようで、海外貿易の道を失った尾崎家が藩の政策にも添う形で塩田経営に資本と人材を振り向けたのだろう。
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◆屋号に故郷を冠す
 その後、時期は明らかではないが尾崎家も佐世保へ移住。九郎左衛門から数えて10代目の総兵衛常光が安政3年(1856)から3年がかりで佐世保川河口部を開拓し、塩田を構築した。
 一帯は尾崎家の屋号「播磨屋」にちなみ、「播磨新田」と呼ばれた。明治18年に国が土地を買い上げて海軍の鎮守府となり、佐世保が日本の海上防衛の重要地域として発展していく礎となった。佐世保鎮守府の初代長官は赤松氏の後裔である赤松則良(のりよし、1841−1920)。深い宿縁を感じる。
 鎮守府は海兵団練兵場を経て、現在は海上自衛隊佐世保地方総監部。東側は芝生が広がる佐世保公園に姿を変えている。
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◆八幡宮の絵馬
 尾崎の赤穂八幡宮の社殿に、面をつけて剣舞する舞人の絵馬が掲げられている。絵馬に添付されている木札の記述によると、寛延3年(1750)に平戸から来穂した尾崎常平が本家との対面を喜び、柴原救長に奉納を依頼したものだという。このことは、赤穂藩儒の赤松滄洲(あかまつ・そうしゅう、1721−1801)の詩文集『静思亭集(せいしていしゅう)』の中にある「柴原家譜附録」にも書かれている。
 「柴原家譜附録」には、寛永5年(1628)に九郎助が船の絵額を同神社へ奉納したとの記述もある。九郎助が乗っていた商船が中国からの帰りに嵐に遭遇。郷里の八幡神へ加護を祈ったところ風雨が収まったため、帰国翌年に報謝の意を込めて中華船を描いた絵額を納めたという。さらに九郎助は同21年(1644)に再び来穂し、黒馬の絵馬を奉納したとある。
 残念ながら船の絵額はすでに老朽化により失われ、黒馬の絵馬は所在不明となっているが、常平が来穂したときはいずれも健在。「柴原家譜附録」には「船馬二画を観るときは則ち旧に感ずるの情益々止む能わず」と、先祖ゆかりの品を見て感激した常平の様子が記されている。
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◆受け継がれた起業家精神
 東京都台東区に本社がある「三亞(さんあ)通商」。台湾、マレーシアなどアジアの国々を中心に化学機器や装置、プラントを輸出する商社で、現社長の尾崎董(おざき・ただす)さん(74)=千葉県柏市=は平戸・尾崎家の直系子孫だ。
 董さんは大手商社の傍系企業に就職。36歳のとき、同僚とともに会社を立ち上げた。社名には「アジアを拠点に商いが通るように」との思いが込められている。
 「私にも先祖の血が流れているのでしょう。そう自負しています」
 新天地で事業を興して成功した九郎左衛門の起業家精神は400年経った今も子孫に受け継がれている。
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掲載紙面(PDF):
2012年10月20日(2010号) 1面 (9,643,390byte)
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コメント

八幡宮の絵馬の写真を見ますと、「伎楽面をかぶり剣舞する・・・」と書かれていますが、舞楽の「陵王」或は「蘭陵王」ともいわれるもののようです。
舞楽といえば まずこの舞を思い浮かべるほど有名な舞いです。
この舞は諸説ありますが、北斉の人 蘭陵王・長恭は才知武勇に優れた武将でしたが、容姿が女性のように美しかったので、戦場で威厳を増すために恐ろしい面を付けて出陣し戦勝したので、その武勇をたたえて作られた伝えられています。
伎楽は 今は絶えて伝わっていないものですが、仮面劇のようなもので舞は伴っていないとされています。
天理大学の雅楽部が復元して各地で奉納しています。

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投稿:きらきらぼし 2012年10月24日

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